ついったを続けることは意外と厳しいのかもしれない

ついったを「まじめに」書いていると、その人の日々がそのままついったに反映されます。
その映し出されたものがあまりにも単調だと、書いていて自分で嫌になるようになるのかもしれません。
だけどそうした単調さから逃れるための個々人の努力が、ついったをいまだに刺激的なものにしているとも言えます。

最近ついったを離れる人をちらほらと見かけるようになりました。
なまじ生身に近い分、ついったを長く続けるのは意外と難しいのかもしれません。